薬を与える外にもヘロインなどを注射していた。けれども彼には眠りさえいつも安らかには限らなかった。彼は時々夢の中にお芳や文太郎に出合ったりした。それは彼には、――夢の中の彼には明るい心もちのするものだった。(彼は或夜の夢の中にはまだ新しい花札の「桜の二十」と話していた。しかもその又「桜の二十」は四五年前のお芳の顔をしていた。)しかしそれだけに目の醒《さ》めた後は一層彼を見じめにした。玄鶴はいつか眠ることにも恐怖に近い不安を感ずるようになった。
大晦日《おおみそか》もそろそろ近づいた或午後、玄鶴は仰向《あおむ》けに横たわったなり、枕《まくら》もとの甲野へ声をかけた。
「甲野さん、わしはな、久しく褌《ふんどし》をしめたことがないから、晒《さら》し木綿《もめん》を六尺買わせて下さい。」
晒し木綿を手に入れることはわざわざ近所の呉服屋へお松を買いにやるまでもなかった。
「しめるのはわしが自分でしめます。ここへ畳んで置いて行って下さい。」
玄鶴はこの褌を便りに、――この褌に縊《くび》れ死ぬことを便りにやっと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさえ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機会も得られなかった。のみならず死はいざとなって見ると、玄鶴にもやはり恐しかった。彼は薄暗い電灯の光に黄檗《おうばく》の一行ものを眺めたまま、未だ生を貪《むさぼ》らずにはいられぬ彼自身を嘲《あざけ》ったりした。
「甲野さん、ちょっと起して下さい。」
それはもう夜の十時頃だった。
「わしはな、これからひと眠りします。あなたも御遠慮なくお休みなすって下さい。」
甲野は妙に玄鶴を見つめ、こう素っ気ない返事をした。
「いえ、わたくしは起きております。これがわたくしの勤めでございますから。」
玄鶴は彼の計画も甲野の為に看破《みやぶ》られたのを感じた。が、ちょっと頷《うなず》いたぎり、何も言わずに狸寝入《たぬきねい》りをした。甲野は彼の枕もとに婦人雑誌の新年号をひろげ、何か読み耽《ふ》けっているらしかった。玄鶴はやはり蒲団《ふとん》の側の褌のことを考えながら、薄目《うすめ》に甲野を見守っていた。すると――急に可笑《おか》しさを感じた。
「甲野さん。」
甲野も玄鶴の顔を見た時はさすがにぎょっとしたらしかった。玄鶴は夜着によりかかったまま、いつかとめどなしに笑っていた。
「なんでございます?
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