面に与へるか、それは雲林も知つてゐたかどうか分らない。が、伸した為に或効果が生ずる事は、百も承知してゐたのだ。もし承知してゐなかつたとしたら、雲林は、天才でも何でもない。唯、一種の自働偶人なのだ。
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 無意識的芸術活動とは、燕の子安貝《こやすがひ》の異名に過ぎぬ。だからこそロダンはアンスピラシオンを軽蔑したのだ。
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 昔セザンヌは、ドラクロアが好い加減な所に花を描いたと云ふ批評を聞いて、むきになつて反対した事がある。セザンヌは唯、ドラクロアを語るつもりだつたかも知れぬ。が、その反対の中にはセザンヌ自身の面目が、明々白地に顕れてゐる。芸術的感激を齎《もたら》すべき或必然の方則を捉へる為なら、白汗百回するのも辞せなかつた、あの恐るべきセザンヌの面目が。
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 この必然の方則を活用する事が、即謂ふ所の技巧なのだ。だから技巧を軽蔑するものは、始から芸術が分らないか、さもなければ技巧と云ふ言葉を悪い意味に使つてゐるか、この二者の外に出でぬと思ふ。悪い意味に使つて置いて、いかんいかんと威張つてゐるのは、菜食を吝嗇《りんしよく》の別名だと思つて、天下の菜食論者を悉しみつたれ呼はりするのと同じ事だ。そんな軽蔑が何になる。凡て芸術家はいやが上にも技巧を磨くべきものだ。前の倪雲林の例で云へば、或効果を生ずる為に松の枝を一方に伸すと云ふこつ[#「こつ」に傍点]をいやが上にも呑みこむべきものだ。霊魂で書く。生命で書く。――さう云ふ金箔ばかりけばけばしい言葉は、中学生にのみ向つて説教するが好い。
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 単純さは尊い。が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ。〆木《しめぎ》をかけた上にも〆木をかけて、絞りぬいた上の単純さなのだ。その単純さを得るまでには、どの位創作的苦労を積まなければならないか、この局所に気のつかないものは、六十劫《ろくじふごふ》の流転を閲《けみ》しても、まだ子供のやうに喃々《なん/\》としやべり乍《なが》ら、デモステネス以上の雄弁だと己惚《うぬぼ》れるだらう。そんな手軽な単純さよりも、寧ろ複雑なものゝ方が、どの位ほんたうの単純さに近いか知れないのだ。
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 危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し
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