違ひあるまい。後者は少くも星の代りに隕石《ゐんせき》を与へる。前者は蛍を見ても星だと思ふだらう。素質、教育、その他の点から、僕が常に戒心するのは、この誤つた形式偏重論者の喝采などに浮かされない事だ。
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 偉大なる芸術家の作品を心読出来た時、僕等は屡その偉大な力に圧倒されて、爾余《じよ》の作家は悉《ことごとく》有れども無きが如く見えてしまふ。丁度太陽を見てゐたものが、眼を外へ転ずると、周囲がうす暗く見えるやうなものだ。僕は始めて「戦争と平和」を読んだ時、どんなに外の露西亜《ロシア》の作家を軽蔑したかわからない。が、これは正しくない事だ。僕等は太陽の外に、月も星もある事を知らなければならぬ。ゲエテはミケル・アンジエロの「最後の審判」に嘆服した時も、ヴアテイカンのラフアエルを軽蔑するのに躊躇するだけの余裕があつた。
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 芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。これは勿論僕もやり兼ねないと云ふ意味だ。僕より造作なくやりさうな人もゐるが。
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 日本へ来たメフイストフエレスが云ふ。「どんな作品でも、悪口を云つて云へないと云ふ作品はない。賢明な批評家のなすべき事は、唯その悪口が一般に承認されさうな機会を捉へる事だ。さうしてその機会を利用して、その作家の前途まで巧に呪つてしまふ事だ。かう云ふ呪は二重に利き目がある。世間に対しても。その作家自身に対しても。」
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 芸術が分る分らないは、言詮《ごんせん》を絶した所にあるのだ。水の冷暖は飲んで自知する外はないと云ふ。芸術が分るのも之と違ひはない。美学の本さへ読めば批評家になれると思ふのは、旅行案内さへ読めば日本中どこへ行つても迷はないと思ふやうなものだ。それでも世間は瞞着《まんちやく》されるかも知れぬ。が、芸術家は――いや恐らくは世間もサンタヤアナだけでは――。
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 僕は芸術上のあらゆる反抗の精神に同情する。たとひそれが時として、僕自身に対するものであつても。
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 芸術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ。と云ふ意味は、倪雲林《げいうんりん》が石上の松を描く時に、その松の枝を悉《ことごとく》途方もなく一方へ伸したとする。その時その松の枝を伸した事が、どうして或効果を画
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