きにも増して恐縮したのはもちろんのことである。
「いや、うっかり話しこんでしまった。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」
 妙に間の悪くなった彼は、こういう挨拶《あいさつ》とともに、自分に対する一種の腹立たしさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、おもむろに立ち上がった。が、平吉は彼の気焔によってむしろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなったように、感じたらしい。
「では先生そのうちに一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしゅうございますか。お忘れになっちゃいけませんぜ。じゃ手前も、これで失礼いたしましょう。おせわしゅうもございましょうが、お通りすがりの節は、ちとお立ち寄りを。手前もまた、お邪魔に上がります。」
 平吉は追いかけるように、こう言った。そうして、もう一度手拭を洗い出しながら、柘榴口《ざくろぐち》の方へ歩いて行く馬琴の後ろ姿を見送って、これから家へ帰った時に、曲亭先生に遇《あ》ったということを、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考えた。

     四

 柘榴口の中は、夕方のようにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめている。眼の悪い
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