馬琴は、その中にいる人々の間を、あぶなそうに押しわけながら、どうにか風呂の隅《すみ》をさぐり当てると、やっとそこへ皺《しわ》だらけな体を浸した。
湯加減は少し熱いくらいである。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い呼吸《いき》をして、おもむろに風呂の中を見廻した。うす暗い中に浮んでいる頭の数は、七つ八つもあろうか。それが皆話しをしたり、唄《うた》をうたったりしているまわりには、人間の脂《あぶら》を溶かした、滑らかな湯の面《おもて》が、柘榴口からさす濁った光に反射して、退屈そうにたぶたぶと動いている。そこへ胸の悪い「銭湯の匂《にお》い」がむんと人の鼻をついた。
馬琴の空想には、昔から羅曼的《ロマンティク》な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描こうとする小説の場景の一つを、思い浮べるともなく思い浮べた。そこには重い舟日覆《ふなひおい》がある。日覆の外の海は、日の暮れとともに風が出たらしい。舷《ふなべり》をうつ浪《なみ》の音が、まるで油を揺するように、重苦しく聞えて来る。その音とともに、日覆をはためかすのは、おおかた蝙蝠《こうもり》の羽音であろう。舟子《かこ》の一人
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