は、それを気にするように、そっと舷から外をのぞいてみた。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々と空にかかっている。すると……
 彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本《よみほん》の批評をしているのが、ふと彼の耳へはいったからである。しかも、それは声といい、話しようといい、ことさら彼に聞かせようとして、しゃべり立てているらしい。馬琴はいったん風呂を出ようとしたが、やめて、じっとその批評を聞き澄ました。
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きなことを言ったって、馬琴なんぞの書くものは、みんなありゃ焼き直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝《すいこでん》の引き写しじゃげえせんか。が、そりゃまあ大目に見ても、いい筋がありやす。なにしろ先が唐《から》の物でげしょう。そこで、まずそれを読んだというだけでも、一手柄《ひとてがら》さ。ところがそこへまたずぶ京伝《きょうでん》の二番煎《にばんせん》じと来ちゃ、呆《あき》れ返って腹も立ちやせん。」
 馬琴はかすむ眼で、この悪口《あっこう》を言っている男の方を透《すか》して見た。湯気にさえぎられて、はっきりと見えないが、どう
前へ 次へ
全49ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング