もさっき側《そば》にいた眇《すがめ》の小銀杏ででもあるらしい。そうとすればこの男は、さっき平吉が八犬伝を褒《ほ》めたのに業《ごう》を煮やして、わざと馬琴に当りちらしているのであろう。
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先《ふでさき》一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけでげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。それが証拠にゃ、昔のことでなけりゃ、書いたというためしはとんとげえせん。お染《そめ》久松《ひさまつ》がお染久松じゃ書けねえもんだから、そら松染情史秋七草《しょうせんじょうしあきのななくさ》さ。こんなことは、馬琴大人の口真似《くちまね》をすれば、そのためしさわに多かりでげす。」
 憎悪の感情は、どっちか優越の意識を持っている以上、起したくも起されない。馬琴も相手の言いぐさが癪《しゃく》にさわりながら、妙にその相手が憎めなかった。その代りに彼自身の軽蔑を、表白してやりたいという欲望がある。それが実行に移されなかったのは、おそらく年齢が歯止めをかけたせいであろう。
「そこへ行くと、一九《いっく》や三馬《さんば
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