ん。いや全く恐れ入りました。」
 馬琴は黙ってまた、足を洗い出した。彼はもちろん彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている。しかしその好意のために、相手の人物に対する評価が、変化するなどということは少しもない。これは聡明《そうめい》な彼にとって、当然すぎるほど当然なことである、が、不思議なことには逆にその評価が彼の好意に影響するということもまたほとんどない。だから彼は場合によって、軽蔑《けいべつ》と好意とを、まったく同一人に対して同時に感ずることが出来た。この近江屋平吉《おうみやへいきち》のごときは、まさにそういう愛読者の一人である。
「なにしろあれだけのものをお書きになるんじゃ、並大抵なお骨折りじゃございますまい。まず当今では、先生がさしずめ日本の羅貫中《らかんちゅう》というところでございますな――いや、これはとんだ失礼を申し上げました。」
 平吉はまた大きな声をあげて笑った。その声に驚かされたのであろう。側《かたわら》で湯を浴びていた小柄な、色の黒い、眇《すがめ》の小銀杏《こいちょう》が、振り返って平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ痰《たん》を吐いた。

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