に、急いで彼の側《かたわら》から飛びのいた。そうしてうまく祖父をかついだおもしろさに小さな手をたたきながら、ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。
 馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那《せつな》にひらめいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。この冗談は太郎が考え出したのか、あるいはまた母が教えてやったのか、それは彼の問うところではない。この時、この孫の口から、こういう語《ことば》を聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」
 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。

     十五

 その夜のことである。
 馬琴は薄暗い円行燈《まるあんどう》の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいって来ない。ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀《こおろぎ》の声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。
 始め筆を下《おろ》した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、
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