の方は、一つ御承諾くださいませんでしょうか。春水なんぞも、……」
「私と為永《ためなが》さんとは違う。」
馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐ろしい勢いで左へまがった。
「まあ私は御免をこうむろう。――杉、杉、和泉屋さんのお履物《はきもの》を直して置いたか。」
九
和泉屋市兵衛を逐《お》い帰すと、馬琴は独《ひと》り縁側の柱へよりかかって、狭い庭の景色《けしき》を眺めながら、まだおさまらない腹の虫を、むりにおさめようとして、骨を折った。
日の光をいっぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた芭蕉《ばしょう》や、坊主になりかかった梧桐《あおぎり》が、槇《まき》や竹の緑といっしょになって、暖かく何坪かの秋を領している。こっちの手水鉢《ちょうずばち》の側《かたわら》にある芙蓉《ふよう》は、もう花が疎《まばら》になったが、向うの、袖垣《そでがき》の外に植えた木犀《もくせい》は、まだその甘い匂いが衰えない。そこへ例の鳶《とび》の声がはるかな青空の向うから、時々笛を吹くように落ちて来た。
彼は、この自然と対照させて、今さらのように世間の下等さを思い出した。下
前へ
次へ
全49ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング