等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩わされて、自分もまた下等な言動を余儀なくさせられるところにある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐い払った。逐い払うということは、もちろん高等なことでもなんでもない。が、自分は相手の下等さによって、自分もまたその下等なことを、しなくてはならないところまで押しつめられたのである。そうして、した。したという意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑しくしたというのにほかならない。つまり自分は、それだけ堕落させられたわけである。
 ここまで考えた時に、彼はそれと同じような出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼のところへ弟子《でし》入りをしたいと言って手紙をよこした、相州朽木上新田《そうしゅうくちきかみしんでん》とかの長島政兵衛《ながしままさべえ》という男である。この男はその手紙によると、二十一の年に聾《つんぼ》になって以来、二十四の今日まで文筆をもって天下に知られたいという決心で、もっぱら読本《よみほん》の著作に精を出した。八犬伝や巡島記の愛読者であることは言うまでもない。ついてはこういう田舎《いなか》にいては、何かと修業の妨げになる。だから、
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