りつづけて、二三回分くらいなら、紙からはなれないそうでございます。ときに先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」
馬琴は不快を感じるとともに、脅かされるような心もちになった。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されるということは、自尊心の旺盛《おうせい》な彼にとって、もちろん好ましいことではない。しかも彼は遅筆の方である。彼はそれが自分の無能力に裏書きをするように思われて、寂しくなったこともよくあった。が、一方またそれが自分の芸術的良心を計る物差しとして、尊《とうと》みたいと思ったこともたびたびある。ただ、それを俗人の穿鑿《せんさく》にまかせるのは、彼がどんな心もちでいようとも、断じて許そうとは思わない。そこで彼は、眼を床《とこ》の紅楓黄菊《こうふうこうぎく》の方へやりながら、吐き出すようにこう言った。
「時と場合でね。早い時もあれば、また遅《おそ》い時もある。」
「ははあ、時と場合でね。なるほど。」
市兵衛は三度《みたび》感服した。が、これが感服それ自身におわる感服でないことは、言うまでもない。彼はこのあとで、すぐにまた、切りこんだ。
「でございますが、たびたび申し上げた原稿
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