れ》は。」
「山本様へいらっしゃいました。」
 家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうしてしかたなく、玄関の隣にある書斎の襖《ふすま》を開けた。
 開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管《きせる》をくわえながら、端然と座敷のまん中に控えている。彼の書斎には石刷《いしずり》を貼《は》った屏風《びょうぶ》と床にかけた紅楓黄菊《こうふうこうぎく》の双幅とのほかに、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、ただ古びた桐の色を、一面に寂しく並べている。障子の紙も貼ってから、一冬はもう越えたのであろう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた破《や》れ芭蕉《ばしょう》の大きな影が、婆娑《ばさ》として斜めに映っている。それだけにこの客のぞろりとした服装が、いっそうまた周囲と釣《つ》り合わない。
「いや、先生、ようこそお帰り。」
 客は、襖があくとともに、滑《なめ》らかな調子でこう言いながら、うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅《きんぺいばい》の版元《はんも
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