だ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日《てんじつ》の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」
彼は恢復《かいふく》した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。
六
うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱《くつぬ》ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄《せった》が一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々《にがにが》しく心に思い起した。
「今日も朝のうちはつぶされるな。」
こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、
「和泉屋《いずみや》さんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。
彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お百《ひゃく》は。」
「御仏参《ごぶっさん》においでになりました。」
「お路《みち》もいっしょか。」
「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」
「伜《せが
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