と》を引き受けていた、和泉屋市兵衛《いずみやいちべえ》という本屋である。
「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」
馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく座についた。
「へへえ、朝湯に。なるほど。」
市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる瑣末《さまつ》な事件にも、この男のごとく容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したような顔をする人間は、稀《まれ》である。馬琴はおもむろに一服吸いつけながら、いつもの通り、さっそく話を用談の方へ持っていった。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。
「そこで今日は何か御用かね。」
「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」
市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のようにやさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。
馬琴はこ
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