》の形をした銅の水差し、獅子《しし》と牡丹《ぼたん》とを浮かせた青磁《せいじ》の硯屏《けんびょう》、それから蘭《らん》を刻んだ孟宗《もうそう》の根竹《ねたけ》の筆立て――そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。が、それもやはり事によると、人なみに己惚《うぬぼ》れの一つだったかも知れない。」
こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫《らくばく》たる孤独の情をもたらした。彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜《けんそん》であることを忘れるものではない。が、それだけにまた、同時代の屑々《せつせつ》たる作者輩に対しては、傲慢《ごうまん》であるとともにあくまでも不遜である。その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭《いと》うべき遼東《りょうとう》の豕《し》だったということは、どうしてやすやすと認められよう。しかも彼の強大な「我《が》」は「悟《さと》り」と「諦《あきら》め」とに避難するにはあまりに情熱に溢《あふ》れている。
彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。もしこの時、彼の後ろの襖《ふすま》が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様《じいさま》ただいま。」という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝《ゆううつ》な気分の中に、いつまでも鎖《とざ》されていたことであろう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝《ひざ》の上へ勢いよくとび上がった。
「お祖父様ただいま。」
「おお、よく早く帰って来たな。」
この語《ことば》とともに、八犬伝の著者の皺《しわ》だらけな顔には、別人のような悦《よろこ》びが輝いた。
十四
茶の間の方では、癇高《かんだか》い妻のお百《ひゃく》の声や内気らしい嫁のお路《みち》の声が賑《にぎ》やかに聞えている。時々太い男の声がまじるのは、折から伜《せがれ》の宗伯《そうはく》も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
「あのね、お祖父《じい》様にね。」
栗梅《くりうめ》の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨《えくぼ》が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
「よく毎日《まいんち》。」
「うん、よく毎日《まいんち》?」
「御勉強なさい。」
馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語《ことば》をつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪《かんしゃく》を起しちゃいけませんって。」
「おやおや、それっきりかい。」
「まだあるの。」
太郎はこう言って、糸鬢奴《いとびんやっこ》の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨《えくぼ》をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐《あわ》れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。馬琴は幸福の意識に溺《おぼ》れながら、こんなことを考えた。そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」
「ええと――お祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
「誰がそんなことを言ったのだい。」
「それはね。」
太郎は悪戯《いたずら》そうに、ちょいと彼の顔を見た。そうして笑った。
「だあれだ?」
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
「違う。」
断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋《あご》を少し前へ出すようにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音《かんのん》様がそう言ったの。」
こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉《うれ》しそうに笑いながら、馬琴につかまるのを恐れるよう
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