をつけ加えた。
「改名主などいうものは、咎《とが》め立てをすればするほど、尻尾《しっぽ》の出るのがおもしろいじゃありませんか。自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌《いや》がって改作させる。また自分たちが猥雑《わいざつ》な心もちにとらわれやすいものだから、男女《なんにょ》の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫《かいいん》の書にしてしまう。それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍《かたはら》痛い次第です。言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
崋山は馬琴の比喩《ひゆ》があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
「それは大きにそういうところもありましょう。しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。改名主《あらためなぬし》などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件《くだり》を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
「そうですかな。私にはそうも思われませんが。」
「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。焚書坑儒《ふんしょこうじゅ》が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
「私が心細いのではない。改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
「とにかく、それよりほかはないようですな。」
「そこでまた、御同様に討死ですか。」
今度は二人とも笑わなかった。笑わなかったばかりではない。馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。それほど崋山のこの冗談のような語《ことば》には、妙な鋭さがあったのである。
「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。討死はいつでも出来ますからな。」
ほどを経《へ》て、馬琴がこう言った。崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
十三
崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。彼は最初それを、彼の癇《かん》がたかぶっているからだと解釈した。
「今の己《おれ》の心もちが悪いのだ。書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
そう思って、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽《ろうばい》し出した。
「このもう一つ前はどうだろう。」
彼はその前に書いたところへ眼を通した。すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然《じゅうぜん》としてちらかっている。彼はさらにその前を読んだ。そうしてまたその前の前を読んだ。
しかし読むに従って拙劣な布置《ふち》と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。そこには何らの映像をも与えない叙景があった。何らの感激をも含まない詠歎があった。そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌《じょうぜつ》としか思われない。彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘《かたひじ》ついてごろりと横になった。が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。彼はこの机の上で、弓張月《ゆみはりづき》を書き、南柯夢《なんかのゆめ》を書き、そうして今は八犬伝を書いた。この上にある端渓《たんけい》の硯《すずり》、蹲※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]《そんり》の文鎮《ぶんちん》、蟇《ひき
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