がた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」
崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹《えぎぬ》らしいものを持っている。
「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
「おお、さっそく、拝見しましょう。」
崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。絵は蕭索《しょうさく》とした裸の樹《き》を、遠近《おちこち》と疎《まばら》に描《えが》いて、その中に掌《たなごころ》をうって談笑する二人の男を立たせている。林間に散っている黄葉《こうよう》と、林梢《りんしょう》に群がっている乱鴉《らんあ》と、――画面のどこを眺《なが》めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。
馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得《かんざんじっとく》に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。
「いつもながら、結構なお出来ですな。私は王摩詰《おうまきつ》を思い出します。|食随[#二]鳴磬[#一]巣烏下《しょくはめいけいにしたがいそううくだり》、|行踏[#二]空林[#一]落葉声《ゆいてくうりんをふめばらくようこえあり》というところでしょう。」
十一
「これは昨日《きのう》描《か》き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」
崋山は、鬚《ひげ》の痕《あと》の青い顋《あご》を撫《な》でながら、満足そうにこう言った。
「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
「それはありがたい。いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」
馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。
「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描《か》けるだろうと思いますな。木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりになり切って、しかもその中に描《えが》いた古人の心もちが、悠々《ゆうゆう》として生きている。あれだけは実に大したものです。まだ私などは、そこへ行くと、子供ほどにも出来ていません。」
「古人は後生《こうせい》恐るべしと言いましたがな。」
馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬《ねた》ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》した。
「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、肝腎《かんじん》らしいようですな。」
「さよう、それが何よりも肝腎です。」
主人と客とは、彼ら自身の語《ことば》に動かされて、しばらくの間口をとざした。そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。
「八犬伝は相変らず、捗《はか》がお行きですか。」
やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」
「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死《うちじに》の覚悟をしました。」
こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
「たかが戯作《げさく》だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」
「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」
「お互いに討死ですかな。」
二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
「しかし絵の方は羨《うらや》ましいようですな。公儀のお咎《とが》めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
今度は馬琴が、話頭を一転した。
十二
「それはないが――御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
「いや、大いにありますよ。」
馬琴は改名主《あらためなぬし》の図書検閲が、陋《ろう》を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂《わいろ》をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙《あ》げた。そうして、それにこんな批評
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