に、急いで彼の側《かたわら》から飛びのいた。そうしてうまく祖父をかついだおもしろさに小さな手をたたきながら、ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。
馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那《せつな》にひらめいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。この冗談は太郎が考え出したのか、あるいはまた母が教えてやったのか、それは彼の問うところではない。この時、この孫の口から、こういう語《ことば》を聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。
十五
その夜のことである。
馬琴は薄暗い円行燈《まるあんどう》の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいって来ない。ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀《こおろぎ》の声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。
始め筆を下《おろ》した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興は火と少しも変りがない。起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。……
「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」
馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。
彼の耳にはいつか、蟋蟀《こおろぎ》の声が聞えなくなった。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上をすべりはじめる。彼は神人と相搏《あいう》つような態度で、ほとんど必死に書きつづけた。
頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々《こんこん》としてどこからか溢《あふ》れて来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐《た》えられなくなる場合を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、何度もこう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今|己《おれ》が書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。」
しかし光の靄《もや》に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺《おぼ》らせながら、澎湃《ほうはい》として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜《とりこ》になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐《あらし》のような勢いで筆を駆った。
この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉《きよ》に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦《よろこ》びである。あるいは恍惚《こうこつ》たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧《げさくざんまい》の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳《おごそ》かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓《ざんし》を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……
× × ×
その間も茶の間の行燈《あんどう》のまわりでは、姑《しゅうと》のお百と、嫁のお路とが、向い合って縫い物を続けている。太郎はもう寝かせたのであろう。少し離れたところには※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《おうじゃく》らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様《とっさん》はまだ寝ないかねえ。」
やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀《こおろぎ》はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしている。
[#地から1字上げ](大正六年十一月)
底本:「日本の文学 29 芥川龍之介」中央公論社
1964(昭和39)年10月5日初版発行
初出:「大阪毎日新聞」
1917(大正6)年11月
入力:佐野良二
校正:伊藤時也
2000年4月15日公開
2004年1月11日修正
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