経作用から来ているという事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。
「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」
 ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。
「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己はこの不快を反※[#「てへん+発」、129−上段−3]するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」
 馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな鳶《とび》の声が、日の光とともに、雨のごとく落ちて来る。彼は今まで沈んでいた気分が次第に軽くなって来ることを意識した。
「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日《てんじつ》の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」
 彼は恢復《かいふく》した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。

     六

 うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱《くつぬ》ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄《せった》が一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々《にがにが》しく心に思い起した。
「今日も朝のうちはつぶされるな。」
 こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、
「和泉屋《いずみや》さんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。
 彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お百《ひゃく》は。」
「御仏参《ごぶっさん》においでになりました。」
「お路《みち》もいっしょか。」
「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」
「伜《せがれ》は。」
「山本様へいらっしゃいました。」
 家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうしてしかたなく、玄関の隣にある書斎の襖《ふすま》を開けた。
 開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管《きせる》をくわえながら、端然と座敷のまん中に控えている。彼の書斎には石刷《いしずり》を貼《は》った屏風《びょうぶ》と床にかけた紅楓黄菊《こうふうこうぎく》の双幅とのほかに、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、ただ古びた桐の色を、一面に寂しく並べている。障子の紙も貼ってから、一冬はもう越えたのであろう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた破《や》れ芭蕉《ばしょう》の大きな影が、婆娑《ばさ》として斜めに映っている。それだけにこの客のぞろりとした服装が、いっそうまた周囲と釣《つ》り合わない。
「いや、先生、ようこそお帰り。」
 客は、襖があくとともに、滑《なめ》らかな調子でこう言いながら、うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅《きんぺいばい》の版元《はんもと》を引き受けていた、和泉屋市兵衛《いずみやいちべえ》という本屋である。
「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」
 馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく座についた。
「へへえ、朝湯に。なるほど。」
 市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる瑣末《さまつ》な事件にも、この男のごとく容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したような顔をする人間は、稀《まれ》である。馬琴はおもむろに一服吸いつけながら、いつもの通り、さっそく話を用談の方へ持っていった。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。
「そこで今日は何か御用かね。」
「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」
 市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のようにやさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。
 馬琴はこ
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