もさっき側《そば》にいた眇《すがめ》の小銀杏ででもあるらしい。そうとすればこの男は、さっき平吉が八犬伝を褒《ほ》めたのに業《ごう》を煮やして、わざと馬琴に当りちらしているのであろう。
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先《ふでさき》一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけでげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。それが証拠にゃ、昔のことでなけりゃ、書いたというためしはとんとげえせん。お染《そめ》久松《ひさまつ》がお染久松じゃ書けねえもんだから、そら松染情史秋七草《しょうせんじょうしあきのななくさ》さ。こんなことは、馬琴大人の口真似《くちまね》をすれば、そのためしさわに多かりでげす。」
 憎悪の感情は、どっちか優越の意識を持っている以上、起したくも起されない。馬琴も相手の言いぐさが癪《しゃく》にさわりながら、妙にその相手が憎めなかった。その代りに彼自身の軽蔑を、表白してやりたいという欲望がある。それが実行に移されなかったのは、おそらく年齢が歯止めをかけたせいであろう。
「そこへ行くと、一九《いっく》や三馬《さんば》はたいしたものでげす。あの手合いの書くものには天然自然の人間が出ていやす。決して小手先の器用や生《なま》かじりの学問で、でっちあげたものじゃげえせん。そこが大きに蓑笠軒隠者《さりゅうけんいんじゃ》なんぞとは、ちがうところさ。」
 馬琴の経験によると、自分の読本《よみほん》の悪評を聞くということは、単に不快であるばかりでなく、危険もまた少なくない。というのは、その悪評を是認するために、勇気が、沮喪《そそう》するという意味ではなく、それを否認するために、その後の創作的動機に、反動的なものが加わるという意味である。そうしてそういう不純な動機から出発する結果、しばしば畸形な芸術を創造する惧《おそ》れがあるという意味である。時好に投ずることのみを目的としている作者は別として、少しでも気魄《きはく》のある作者なら、この危険には存外おちいりやすい。だから馬琴は、この年まで自分の読本に対する悪評は、なるべく読まないように心がけて来た。が、そう思いながらもまた、一方には、その悪評を読んでみたいという誘惑がないでもない。今、この風呂で、この小銀杏の悪口を聞くようになったのも、半ばはその誘惑におちいったからである。
 こう気のついた彼は、すぐに便々とまだ湯に浸っている自分の愚を責めた。そうして、癇高《かんだか》い小銀杏の声を聞き流しながら、柘榴口を外へ勢いよくまたいで出た。外には、湯気の間に窓の青空が見え、その青空には暖かく日を浴びた柿が見える。馬琴は水槽《みずぶね》の前へ来て、心静かに上がり湯を使った。
「とにかく、馬琴は食わせ物でげす。日本の羅貫中《らかんちゅう》もよく出来やした。」
 しかし風呂の中ではさっきの男が、まだ馬琴がいるとでも思うのか、依然として猛烈なフィリッピクスを発しつづけている。ことによると、これはその眇《すがめ》に災いされて、彼の柘榴口をまたいで出る姿が、見えなかったからかも知れない。

     五

 しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでいた。眇の毒舌は、少なくともこれだけの範囲で、確かに予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、いちいち彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。そうして、それが、いかなる点から考えてみても、一顧の価のない愚論だという事実を、即座に証明することが出来た。が、それにもかかわらず、一度《ひとたび》乱された彼の気分は、容易に元通り、落ち着きそうもない。
 彼は不快な眼をあげて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでいる。だから「諸国|銘葉《めいよう》」の柿色の暖簾《のれん》、「本黄楊《ほんつげ》」の黄いろい櫛形《くしがた》の招牌《かんばん》、「駕籠《かご》」の掛行燈《かけあんどう》、「卜筮《ぼくぜい》」の算木《さんぎ》の旗、――そういうものが、無意味な一列を作って、ただ雑然と彼の眼底を通りすぎた。
「どうして己《おれ》は、己の軽蔑している悪評に、こう煩わされるのだろう。」
 馬琴はまた、考えつづけた。
「己を不快にするのは、第一にあの眇が己に悪意を持っているという事実だ。人に悪意を持たれるということは、その理由のいかんにかかわらず、それだけで己には不快なのだから、しかたがない。」
 彼は、こう思って、自分の気の弱いのを恥じた。実際彼のごとく傍若無人な態度に出る人間が少なかったように、彼のごとく他人の悪意に対して、敏感な人間もまた少なかったのである。そうして、この行為の上では全く反対に思われる二つの結果が、実は同じ原因――同じ神
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