ましく開放《あけはな》されなかつたら、さうして「お祖父《ぢい》様唯今。」と云ふ声と共に、柔かい小さな手が、彼の頸《くび》へ抱きつかなかつたら、彼は恐らくこの憂欝《いううつ》な気分の中に、何時までも鎖《とざ》されてゐた事であらう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持つてゐる大胆と率直とを以て、いきなり馬琴の膝の上へ勢よくとび上つた。
「お祖父様唯今。」
「おお、よく早く帰つて来たな。」
この語《ことば》と共に、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のやうな悦《よろこ》びが輝いた。
十四
茶の間の方では、癇高《かんだか》い妻のお百《ひやく》の声や内気らしい嫁のお路《みち》の声が賑《にぎやか》に聞えてゐる。時々太い男の声がまじるのは、折から伜《せがれ》の宗伯《そうはく》も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝に跨がりながら、それを聞きすましでもするやうに、わざと真面目な顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなつて、小さな鼻の穴のまはりが、息をする度に動いてゐる。
「あのね、お祖父様にね。」
栗梅《くりうめ》の小さな紋附を着た太郎は、突然かう云ひ出した。考へようとする努力と、笑ひたいのを耐《こら》へようとする努力とで、靨《ゑくぼ》が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、自《おのづか》ら微笑を誘ふやうな気がした。
「よく毎日《まいんち》。」
「うん、よく毎日?」
「御勉強なさい。」
馬琴はとうとう噴き出した。が、笑の中ですぐ又|語《ことば》をつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪《かんしやく》を起しちやいけませんつて。」
「おやおや、それつきりかい。」
「まだあるの。」
太郎はかう云つて、糸鬢奴《いとびんやつこ》の頭を仰向《あふむ》けながら自分も亦笑ひ出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑つてゐるのを見ると、これが大きくなつて、世間の人間のやうな憐れむべき顔にならうとは、どうしても思はれない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんな事を考へた。さうしてそれが、更に又彼の心を擽《くすぐ》つた。
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんな事があるの。」
「どんな事が。」
「ええと――お祖父《ぢい》様はね。今にもつとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいつて。」
「辛抱してゐるよ。」馬琴は思はず、真面目な声を出した。
「もつと、もつとようく辛抱なさいつて。」
「誰がそんな事を云つたのだい。」
「それはね。」
太郎は悪戯《いたづら》さうに、ちよいと彼の顔を見た。さうして笑つた。
「だあれだ?」
「さうさな。今日は御仏参に行つたのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだらう。」
「違ふ。」
断然として首を振つた太郎は、馬琴の膝から、半分腰を擡《もた》げながら、顋《あご》を少し前へ出すやうにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音様がさう云つたの。」
かう云ふと共に、この子供は、家内中に聞えさうな声で嬉しさうに笑ひながら、馬琴につかまるのを恐れるやうに、急いで彼の側から飛び退いた。さうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるやうにして茶の間の方へ逃げて行つた。
馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那《せつな》に閃《ひらめ》いたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それと共に彼の眼には、何時か涙が一ぱいになつた。この冗談は太郎が考へ出したのか、或は又母が教へてやつたのか、それは彼の問ふ所ではない。この時、この孫の口から、かう云ふ語《ことば》を聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がさう云つたか。勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ。」
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑ひながら、子供のやうに頷《うなづ》いた。
十五
その夜の事である。
馬琴は薄暗い円行燈《まるあんどう》の光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、蟋蟀《こほろぎ》の声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。
始め筆を下《おろ》した時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……
「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」
馬琴はややもすれば走りさうな筆を警《いまし》めながら、何度もかう自分に囁《ささや》いた。が、頭の中にはもうさつきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。
彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は自《おのづか》ら勢を生じて、一気に紙の上を辷《すべ》りはじめる。彼は神人《しんじん》と相搏《あひう》つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々《こんこん》として何処からか溢れて来る。彼はその凄《すさま》じい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、緊《かた》く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今|己《おれ》が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」
しかし光の靄《もや》に似た流は、少しもその速力を緩《ゆる》めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃《はうはい》として彼を襲つて来る。彼は遂《つひ》に全くその虜《とりこ》になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を駆《か》つた。
この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉《きよ》に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧《げさくざんまい》の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳《おごそ》かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓《ざんし》を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
* * *
その間も茶の間の行燈のまはりでは、姑《しうと》のお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《わうじやく》らしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様《とつさん》はまだ寝ないかねえ。」
やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしく呟《つぶや》いた。
「きつと又お書きもので、夢中になつていらつしやるのでせう。」
お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。碌《ろく》なお金にもならないのにさ。」
お百はかう云つて、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答へない。お路も黙つて針を運びつづけた。蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしてゐる。
[#地から2字上げ](大正六年十一月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月16日公開
2004年1月11日修正
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