てにする習慣がある。馬琴はそれを聞く度に、自分も亦《また》蔭では「馬琴が」と云はれる事だらうと思つた。この軽薄な、作者を自家の職人だと心得てゐる男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?――癇の昂《たか》ぶつた時々には、かう思つて腹を立てた事も、稀ではない。今日も彼は種彦と云ふ名を耳にすると、苦い顔を愈《いよいよ》苦くせずにはゐられなかつた。が、市兵衛には、少しもそんな事は気にならないらしい。
「それから手前どもでも、春水《しゆんすゐ》を出さうかと存じて居ります。先生はお嫌ひでございますが、やはり俗物にはあの辺が向きますやうでございますな。」
「ははあ、左様かね。」
 馬琴の記憶には、何時か見かけた事のある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。「私は作者ぢやない。お客様のお望みに従つて、艶物《つやもの》を書いてお目にかける手間取りだ。」――かう春水が称してゐると云ふ噂は、馬琴も夙《つと》に聞いてゐた所である。だから、勿論彼はこの作者らしくない作者を、心の底から軽蔑してゐた。が、それにも関らず、今市兵衛が呼びすてにするのを聞くと、依然として不快の情を禁ずる事
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