ながら、何時もの通り、早速話を用談の方へ持つていつた。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。
「そこで今日は何か御用かね。」
「へえ、なに又一つ原稿を頂戴に上りましたんで。」
 市兵衛は煙管《きせる》を一つ指の先でくるりとまはして見せながら、女のやうに柔《やさ》しい声を出した。この男は不思議な性格を持つてゐる。と云ふのは、外面の行為と内面の心意とが、大抵な場合は一致しない。しない所か、何時でも正反対になつて現れる。だから、彼は大《おほい》に強硬な意志を持つてゐると、必ずそれに反比例する、如何にも柔しい声を出した。
 馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。
「原稿と云つたつて、それは無理だ。」
「へへえ、何か御差支《おさしつかへ》でもございますので。」
「差支へる所ぢやない。今年は読本《よみほん》を大分引受けたので、とても合巻《がふくわん》の方へは手が出せさうもない。」
「成程それは御多忙で。」
 と云つたかと思ふと、市兵衛は煙管で灰吹きを叩いたのが相図のやうに、今までの話はすつかり忘れたと云ふ顔をして、突然|鼠小僧《ねずみこぞう》次郎太夫《じろだいふ》の話をしやべり出
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