と共に、彼の中にある芸術家は当然又後者を肯定した。勿論此矛盾を切抜ける安価な妥協的思想もない事はない。実際彼は公衆に向つて此煮切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧《あいまい》な態度を隠さうとした事もある。
 しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作《げさく》の価値を否定して「勧懲《くわんちよう》の具」と称しながら、常に彼の中に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ばうはく》する芸術的感興に遭遇すると、忽ち不安を感じ出した。――水滸伝の一節が、偶《たまたま》彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があつたのである。
 この点に於て、思想的に臆病だつた馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強ひて思量を、留守にしてゐる家族の方へ押し流さうとした。が、彼の前には水滸伝がある。不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。そこへ折よく久しぶりで、崋山《くわざん》渡辺登《わたなべのぼる》が尋ねて来た。袴羽織に紫の風呂敷包を小脇にしてゐる所では、これは大方借りてゐた書物でも返しに来たのであらう。
 馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎へに出た。
「今日は拝借した書物を御返却|旁《かたがた》、御目にかけたいものがあつて、参上しました。」
 崋山は書斎に通ると、果してかう云つた。見れば風呂敷包みの外にも紙に巻いた絵絹《ゑぎぬ》らしいものを持つてゐる。
「御暇なら一つ御覧を願ひませうかな。」
「おお、早速、拝見しませう。」
 崋山は或興奮に似た感情を隠すやうに、稍《やや》わざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹を披《ひら》いて見せた。絵は蕭索《せうさく》とした裸の樹を、遠近《をちこち》と疎《まばら》に描いて、その中に掌《たなごころ》を拊《う》つて談笑する二人の男を立たせてゐる。林間に散つてゐる黄葉と、林梢《りんせう》に群《むらが》つてゐる乱鴉《らんあ》と、――画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いてゐない所はない。
 馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得《かんざんじつとく》に落ちると、次第にやさしい潤《うるほ》ひを帯びて輝き出した。
「何時もながら、結構な御出来ですな。私は王摩詰《わうまきつ》を思ひ出します。|食随[#二]鳴磬[#一]巣烏下《しよくはめいけいにしたがひさううくだり》、|行踏[#二]空林[#一]落葉声《ゆいてくうりんをふ
前へ 次へ
全24ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング