か。それが皆話しをしたり、唄をうたつたりしてゐるまはりには、人間の脂を溶《とか》した、滑《なめらか》な湯の面《おもて》が、柘榴口からさす濁つた光に反射して、退屈さうにたぶたぶと動いてゐる。そこへ胸の悪い「銭湯の匂」がむんと人の鼻を衝《つ》いた。
 馬琴の空想には、昔から羅曼的《ロマンテイク》な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描かうとする小説の場景の一つを、思ひ浮べるともなく思ひ浮べた。そこには重い舟日覆《ふなひおひ》がある。日覆の外の海は、日の暮と共に風が出たらしい。舷《ふなべり》をうつ浪の音が、まるで油を揺るやうに、重苦しく聞えて来る。その音と共に、日覆をはためかすのは大方|蝙蝠《かうもり》の羽音であらう。舟子《かこ》の一人は、それを気にするやうに、そつと舷から外を覗いて見た。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々《いんいん》と空に懸つてゐる。すると……
 彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本《よみほん》の批評をしてゐるのが、ふと彼の耳へはいつたからである。しかも、それは声と云ひ、話様《はなしやう》と云ひ、殊更彼に聞かせようとして、しやべり立ててゐるらしい。馬琴は一旦風呂を出ようとしたが、やめて、ぢつとその批評を聞き澄ました。
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きな事を云つたつて、馬琴なんぞの書くものは、みんなありや焼直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝《すゐこでん》の引写しぢやげえせんか。が、そりやまあ大目に見ても、いい筋がありやす。何しろ先が唐《から》の物でげせう。そこで、まづそれを読んだと云ふ丈でも、一手柄さ。所がそこへ又づぶ京伝《きやうでん》の二番煎《にばんせん》じと来ちや、呆れ返つて腹も立ちやせん。」
 馬琴はかすむ眼で、この悪口を云つてゐる男の方を透《すか》して見た。湯気に遮《さへぎ》られて、はつきりと見えないが、どうもさつき側にゐた眇《すがめ》の小銀杏ででもあるらしい。さうとすればこの男は、さつき平吉が八犬伝を褒めたのに業《ごふ》を煮やして、わざと馬琴に当りちらしてゐるのであらう。
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺子屋《てらこや》の師匠でも云ひさうな、四書五経《ししよごきやう》の講釈だけでげせう。だから又当世の事は、とんと御存じなしさ。それ
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