と徐《おもむ》ろに歎きを伝へ出した。その声も、――声はちよいと説明出来ない。が、強ひて説明すれば、華やかに寂び澄ました声である。僕の隣にゐた英吉利《イギリス》人も細君と顔を見合せながら、ワンダァフル・ヴォイスとか何とか云つた。声だけは異人にもわかるのに違ひない。のみならずしをりの細かいことも小面《こづら》の憎い位である。僕はもう一度シヤツの下にかすかな戦慄の伝はるのを感じた。
 狂女は地謡《ぢうたひ》の声の中にやつと隅田川の渡りへ着いた。けれども男ぶりの好い渡し守は唯では舟へ乗せようとしない。「都の人と云ひ、狂人と云ひ、面白う狂うて見せ候へ」などと虫の好い註文を並べてゐる。僕はこの二人の問答の中に、天才の悲劇を発見した。天才もこの狂女のやうに何ものかを探す為に旅をしてゐる。が、我我は不幸にもかう云ふ情熱を理解しない。同じ道に志した旅人さへ冷然とその苦痛を看過してゐる。況《いはん》や妻子を養ふ以外に人生の意味を捉へ得ない、幸福なる天下の渡し守は恰《あたか》も天才の情熱を犬の曲芸とでも間違へたやうに、三千年来|恬然《てんぜん》と「狂うて見せ候へ」を繰り返してゐる。天才も口を餬《こ》する為に
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