なつた能役者の罪でも何でもない。唯この役を勤めさせられた薄命の致す所である。僕は僕自身も痩せてゐるから、不満に感ずる一面には大いに旅人に同情した。
尤もこの旅人は痩せたりと雖《いへど》も、尋常一様の旅人ではない。隅田川の渡りを求めに来た、寂しい何人かの旅人を一身に代表する名誉職である。のみならず又「都より女物狂ひの下り候」を我我看客へ広告に来た芸術上の先ぶれ役である。僕は「まづまづ御出で候跡の、けしからず物騒に候は何事にて候ぞ」と云ふ渡し守の詞と共に、武蔵野の草の靡いた中に一条の道の現れるのを感じた。昔の日の光りはその道の向うに模糊たる人ざわめきを照してゐる。都より下り候女物狂ひもあの中にまじつてゐるのかも知れない。いや、もう狂女はいつの間にか、電燈の明るい橋がかりをしづしづと舞台へかかつてゐる。
狂女は桜間金太郎氏である。僕は二の松へかかつた金太郎氏の姿を綺麗《きれい》な気狂ひだなと感心した。黒い塗り笠がちらりと光つて、面に仄かな影がさして、薄青い着つけが細つそりして、――まあ当麻寺《たいまでら》の画巻《ゑまき》か何かの女房に会つたやうな心もちである。狂女は「げにや人の親の心は」
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