それは経験によれば、芸術的興奮の襲来を予《あらかじ》め警告する烽火《のろし》だつた。これだけは誰が何と云つても、僕にだけは間違ひのない事実である。
 その次には、若い旅人が一人、そろそろ橋がかりへかかり出した。この人は何と云ふ能役者か覚えてゐないのは残念である。が、如何にも「雲霞、あと遠山に越えなして/\、いく関々の道すがら、国々過ぎて」来たやうに、肉づきの悪い青年だつた。新氏の渡し守は堂堂としてゐる。ああ云ふ妙に男ぶりの好い、でつぷり肥つた渡し守は古往今来隅田川に舟などを漕いでゐた筈はない。しかもその堂堂とした渡し守を不調和とも何とも感じないのは丁度歌舞伎の火入りの月を不調和と感じないのも同じことである。能は歌舞伎よりも又一層写実の世界にこだはつてゐない。紛紛たる現実性の不足などは忽《たちま》ち詩の中に消滅してしまふ。けれども現実性の過剰だけは逆に舞台のイリュウジョンを破壊する力を具へてゐる。僕はこの痩せた旅人の姿に聊《いささ》か現実性の過剰を感じた。つまり旅人は業平《なりひら》以来の隅田川の渡りの水にも、犬の土左衛門の流れ得る事実をちよつと思ひ出させ過ぎたのである。これは勿論旅人に
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