い響と共に、行長の眠を破ってしまう。ただ行長は桂月香のこの宝鈴も鳴らないように、いつのまにか鈴《すず》の穴へ綿をつめたのを知らなかったのである。
 桂月香と彼女の兄とはもう一度そこへ帰って来た。彼女は今夜は繍《ぬい》のある裳《もすそ》に竈《かまど》の灰を包んでいた。彼女の兄も、――いや彼女の兄ではない。王命《おうめい》を奉じた金応瑞は高々《たかだか》と袖《そで》をからげた手に、青竜刀《せいりゅうとう》を一ふり提《さ》げていた。彼等は静かに行長のいる翠金の帳へ近づこうとした。すると行長の宝剣はおのずから鞘《さや》を離れるが早いか、ちょうど翼《つばさ》の生えたように金将軍《きんしょうぐん》の方へ飛びかかって来た。しかし金将軍は少しも騒《さわ》がず、咄嵯《とっさ》にその宝剣を目がけて一口の唾《つば》を吐きかけた。宝剣は唾にまみれると同時に、たちまち神通力《じんつうりき》を失ったのか、ばたりと床《ゆか》の上へ落ちてしまった。
 金応瑞《きんおうずい》は大いに吼《たけ》りながら、青竜刀の一払いに行長の首を打ち落した。が、この恐しい倭将《わしょう》の首は口惜《くや》しそうに牙《きば》を噛《か》み噛み、もとの体へ舞い戻ろうとした。この不思議を見た桂月香《けいげつこう》は裳《もすそ》の中へ手をやるや否や、行長の首の斬《き》り口へ幾掴《いくつか》みも灰を投げつけた。首は何度飛び上っても、灰だらけになった斬り口へはとうとう一度も据《す》わらなかった。
 けれども首のない行長の体は手さぐりに宝剣を拾ったと思うと、金将軍へそれを投げ打ちにした。不意《ふい》を打たれた金将軍は桂月香を小腋《こわき》に抱えたまま、高い梁《はり》の上へ躍り上った。が、行長の投げつけた剣は宙に飛んだ金将軍の足の小指を斬り落した。
 その夜《よ》も明けないうちである。王命を果した金将軍は桂月香を背負いながら、人気《ひとけ》のない野原を走っていた。野原の涯《はて》には残月が一痕《いっこん》、ちょうど暗い丘のかげに沈もうとしているところだった。金将軍はふと桂月香の妊娠《にんしん》していることを思い出した。倭将の子は毒蛇《どくじゃ》も同じことである。今のうちに殺さなければ、どう云う大害を醸《かも》すかも知れない。こう考えた金将軍は三十年前の清正《きよまさ》のように、桂月香親子を殺すよりほかに仕かたはないと覚悟した。
 英雄
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