た。京城《けいじょう》はすでに陥った。平壌《へいじょう》も今は王土ではない。宣祖王《せんそおう》はやっと義州《ぎしゅう》へ走り、大明《だいみん》の援軍を待ちわびている。もしこのまま手をつかねて倭軍《わぐん》の蹂躙《じゅうりん》に任せていたとすれば、美しい八道の山川《さんせん》も見る見る一望の焼野の原と変化するほかはなかったであろう。けれども天は幸にもまだ朝鮮を見捨てなかった。と云うのは昔青田の畔《くろ》に奇蹟《きせき》を現した一人の童児、――金応瑞《きんおうずい》に国を救わせたからである。
 金応瑞は義州《ぎしゅう》の統軍亭《とうぐんてい》へ駈《か》けつけ、憔悴《しょうすい》した宣祖王《せんそおう》の竜顔《りゅうがん》を拝した。
「わたくしのこうして居りますからは、どうかお心をお休めなさりとうございまする。」
 宣祖王は悲しそうに微笑した。
「倭将《わしょう》は鬼神《きじん》よりも強いと云うことじゃ。もしそちに打てるものなら、まず倭将の首を断《た》ってくれい。」
 倭将の一人――小西行長はずっと平壌《へいじょう》の大同館《だいどうかん》に妓生《ぎせい》桂月香《けいげつこう》を寵愛《ちょうあい》していた。桂月香は八千の妓生のうちにも並ぶもののない麗人である。が、国を憂うる心は髪に挿《さ》した※[#「王へん+攵」、第3水準1−87−88]瑰《まいかい》の花と共に、一日も忘れたと云うことはない。その明眸《めいぼう》は笑っている時さえ、いつも長い睫毛《まつげ》のかげにもの悲しい光りをやどしている。
 ある冬の夜《よ》、行長は桂月香に酌《しゃく》をさせながら、彼女の兄と酒盛りをしていた。彼女の兄もまた色の白い、風采《ふうさい》の立派《りっぱ》な男である。桂月香はふだんよりも一層|媚《こび》を含みながら、絶えず行長に酒を勧めた。そのまた酒の中にはいつの間《ま》にか、ちゃんと眠り薬が仕こんであった。
 しばらくの後《のち》、桂月香と彼女の兄とは酔《よ》い伏した行長を後《あと》にしたまま、そっとどこかへ姿を隠した。行長は翠金《すいきん》の帳《ちょう》の外に秘蔵の宝剣《ほうけん》をかけたなり、前後も知らずに眠っていた。もっともこれは必ずしも行長の油断したせいばかりではない。この帳はまた鈴陣《れいじん》である。誰でも帳中に入ろうとすれば、帳をめぐった宝鈴《ほうれい》はたちまちけたたまし
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