の悪い思ひをさせる惧《おそれ》がなかつたなら、お前は丁度《ちやうど》五度《ごたび》鼻洟《はなみづ》を啜《すす》つたぜと、云つてやりたかつた位である。
間《ま》もなく躁狂《さうきやう》の芸者が帰つたので、座敷は急に静になつた。窓|硝子《ガラス》の外を覗《のぞ》いて見ると、広告の電燈の光が、川の水に映《うつ》つてゐる。空は曇つてゐるので、東山《ひがしやま》もどこにあるのだか、判然しない。自分は反動的に気がふさぎ出したから、小林君に又|大津絵《おほつゑ》でも唄ひませんかと、云つた。小林君は脇息《けふそく》によりかかりながら、子供のやうに笑つて、いやいやをした。やはり大分《だいぶ》酔《ゑひ》がまはつてゐたのだらう。舞妓は椿餅にも飽きたと見えて、独りで折鶴《をりづる》を拵《こしら》へてゐる。おまつさんと外《ほか》の芸者とは、小さな声で、誰かの噂か何かしてゐる。――自分は東京を出て以来、この派手《はで》なお茶屋の中で、始めて旅愁《りよしう》らしい、寂しい感情を味《あぢは》つた。
[#地から1字上げ](大正七年六月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和
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