しかも一方ではN家の主人などが、私の気鬱《きうつ》の原因を独身生活の影響だとでも感違いをしたのでございましょう。一日も早く結婚しろと頻《しきり》に主張しますので、日こそ違いますが二年|前《ぜん》にあの大地震のあった十月、いよいよ私はN家の本邸で結婚式を挙げる事になりました。連日の心労に憔悴《しょうすい》し切った私が、花婿《はなむこ》らしい紋服を着用して、いかめしく金屏風を立てめぐらした広間へ案内された時、どれほど私は今日《こんにち》の私を恥しく思ったでございましょう。私はまるで人目を偸《ぬす》んで、大罪悪を働こうとしている悪漢のような気が致しました。いや、ような気ではございません。実際私は殺人の罪悪をぬり隠して、N家の娘と資産とを一時盗もうと企てている人非人《にんぴにん》なのでございます。私は顔が熱くなって参りました。胸が苦しくなって参りました。出来るならこの場で、私が妻を殺した一条を逐一《ちくいち》白状してしまいたい。――そんな気がまるで嵐のように、烈しく私の頭の中を駈けめぐり始めました。するとその時、私の着座している前の畳へ、夢のように白羽二重《しろはぶたえ》の足袋が現れました。続いて仄《ほの》かな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました。それから錦襴《きんらん》の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲《べっこう》の櫛笄《くしこうがい》が重そうに光っている高島田が眼にはいった時、私はほとんど息がつまるほど、絶対絶命[#「絶対絶命」はママ]な恐怖に圧倒されて、思わず両手を畳へつくと、『私は人殺しです。極重悪《ごくじゅうあく》の罪人です』と、必死な声を挙げてしまいました。………

       ―――――――――――――――――――――――――

 中村玄道《なかむらげんどう》はこう語り終ると、しばらくじっと私の顔を見つめていたが、やがて口もとに無理な微笑を浮べながら、
「その以後の事は申し上げるまでもございますまい。が、ただ一つ御耳に入れて置きたいのは、当日限り私は狂人と云う名前を負わされて、憐むべき余生《よせい》を送らなければならなくなった事でございます。果して私が狂人かどうか、そのような事は一切先生の御判断に御任《おま》かせ致しましょう。しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございま
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