て見ますと、同僚は急に私の顔色が変って、椅子ごと倒れそうになったのに驚きながら、皆私のまわりへ集って、水を飲ませるやら薬をくれるやら、大騒ぎを致して居りました。が、私はその同僚に礼を云う余裕もないほど、頭の中はあの恐しい疑惑の塊《かたまり》で一ぱいになっていたのでございます。私はやはり妻を殺すために殺したのではなかったろうか。たとい梁《はり》に圧《お》されていても、万一命が助かるのを恐れて、打ち殺したのではなかったろうか。もしあのまま殺さないで置いたなら今の備後屋《びんごや》の女房の話のように、私の妻もどんな機会で九死《きゅうし》に一生《いっしょう》を得たかも知れない。それを私は情無《なさけな》く、瓦の一撃で殺してしまった――そう思った時の私の苦しさは、ひとえに先生の御推察を仰ぐほかはございません。私はその苦しみの中で、せめてはN家との縁談を断ってでも、幾分一身を潔《きよ》くしようと決心したのでございます。
 ところがいよいよその運びをつけると云う段になりますと、折角の私の決心は未練にもまた鈍り出しました。何しろ近々結婚式を挙げようと云う間際になって、突然破談にしたいと申すのでございますから、あの大地震の時に私が妻を殺害《せつがい》した顛末《てんまつ》は元より、これまでの私の苦しい心中も一切打ち明けなければなりますまい。それが小心な私には、いざと云う場合に立ち至ると、いかに自《みずか》ら鞭撻しても、断行する勇気が出なかったのでございます。私は何度となく腑甲斐《ふがい》ない私自身を責めました。が、徒《いたずら》に責めるばかりで、何一つ然るべき処置も取らない内に、残暑はまた朝寒《あささむ》に移り変って、とうとう所謂《いわゆる》華燭《かしょく》の典を挙げる日も、目前に迫ったではございませんか。
 私はもうその頃には、だれとも滅多に口を利《き》かないほど、沈み切った人間になって居りました。結婚を延期したらと注意した同僚も、一人や二人ではございません。医者に見て貰ったらと云う忠告も、三度まで校長から受けました。が、当時の私にはそう云う親切な言葉の手前、外見だけでも健康を顧慮しようと云う気力さえすでになかったのでございます。と同時にまたその連中の心配を利用して、病気を口実に結婚を延期するのも、今となっては意気地《いくじ》のない姑息手段《こそくしゅだん》としか思われませんでした。
前へ 次へ
全15ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング