機関車を見ながら
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尤《もつと》も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|斜《ななめ》に

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(例)[#地から1字上げ](昭和二年七月)
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 ……わたしの子供たちは、機関車の真似をしてゐる。尤《もつと》も動かずにゐる機関車ではない。手をふつたり、「しゆつしゆつ」といつたり、進行中の機関車の真似をしてゐる。これはわたしの子供たちに限つたことではないであらう。ではなぜ機関車の真似をするか? それはもちろん機関車に何か威力を感じるからである。或は彼等自身も機関車のやうに激しい生命を持ちたいからである。かういふ要求を持つてゐるのは子供たちばかりに限つてゐない。大人《おとな》たちもやはり同じことである。
 ただ大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。しかしそれぞれ突進し、しかも軌道《きだう》の上を走ることもやはり機関車と同じことである。この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人《によにん》であらう。我々は子供と大人とを問はず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つ所におのづから自由を失つてゐる。それは少しも逆説ではない。逆説的な人生の事実である。が、我々自身の中にある無数の我々の祖先たちや一時代の一国の社会的約束は多少かういふ要求に歯どめをかけないことはない。しかしかういふ要求は太古《たいこ》以来我々の中《うち》に潜んでゐる。……
 わたしは高い土手《どて》の上に立ち、子供たちと機関車の走るのを見ながら、こんなことを思はずにはゐられなかつた。土手の向うには土手が又一つあり、そこにはなかば枯れかかつた椎《しひ》の木が一本|斜《ななめ》になつてゐた。あの機関車――3271号はムツソリニである。ムツソリニの走る軌道は或は光に満ちてゐるであらう。しかしどの軌道もその最後に一度も機関車の通らない、さびた二三尺のあることを思へば、ムツソリニの一生も恐らくは我々の一生のやうに老いてはどうすることも出来ないかも知れない。のみならず――
 のみならず我々はどこまでも突進したい欲望を持ち、同時に又軌道を走つてゐる。この矛盾《むじゆん》は善《い》い加減に見のがすことは出来ない。我々の悲劇と呼ぶものは正《まさ》にそこに発
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