生してゐる。マクベスはもちろん小春治兵衛《こはるぢへゑ》もやはり畢《つひ》に機関車である。小春治兵衛は、マクベスのやうに強い性格を持つてゐないかも知れない。しかし彼等の恋愛のためにやはりがむしやらに突進してゐる。(紅毛人《こうまうじん》たちの悲劇論はここでは不幸にも通用しない。悲劇を作るものは人生である。美学者の作るわけではない。)この悲劇を第三者の目に移せば、あらゆる動機のはつきりしないために(あらゆる動機のはつきりすることは悲劇中の人物にも望めないかも知れない。)ただいたづらに突進し、いたづらに停止、――或は顛覆《てんぷく》するのを見るだけである。従つて喜劇になつてしまふ。即ち喜劇は第三者の同情を通過しない悲劇である。畢竟《ひつきやう》我々は大小を問はず、いづれも機関車に変りはない。わたしはその古風な機関車――煙突の高い3236号にわたし自身を感じてゐる。トランス・テエブルの上に乗つて徐《おもむろ》に位置を換へてゐる3236号に。
 しかし一時代の一国の社会や我々の祖先はそれ等の機関車にどの位歯どめをかけるであらう? わたしはそこに歯どめを感じると共にエンヂンを、――石炭を、――燃え上る火を感じないわけにも行《ゆ》かないのである。我々は我々自身ではない。実はやはり機関車のやうに長い歴史を重ねて来たものである。のみならず無数のピストンや歯車の集まつてゐるものである。しかも我々を走らせる軌道は、機関車にはわかつてゐないやうに我々自身にもわかつてゐない。この軌道も恐らくはトンネルや鉄橋に通じてゐることであらう。あらゆる解放はこの軌道のために絶対に我々には禁じられてゐる。こういふ事実は恐ろしいかも知れない。が、いかに考へて見ても、事実に相違ないことは確《たしか》である。
 もし機関車さへしつかりしてゐれば、――それさへ機関車の自由にはならない。或機関手を或機関車へ乗らせるのは気まぐれな神々の意志によるのである。ただ大抵《たいてい》の機関車は兎《と》に角《かく》全然さびはてるまで走ることを断念しない。あらゆる機関車の外見上の荘厳はそこにかがやいてゐるであらう。丁度《ちやうど》油を塗つた鉄のやうに。……
 我々はいづれも機関車である。我々の仕事は空の中に煙や火花を投げあげる外《ほか》はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機関車の走つてゐるのを知るであらう。或
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