向う河岸《がし》の並倉《なみぐら》の上には、もの凄いように赤い十六夜《じゅうろくや》の月が、始めて大きく上り始めました。私はさっきあの芳年《よしとし》の浮世絵を見て、洋服を着た菊五郎から三浦の事を思い出したのは、殊にその赤い月が、あの芝居の火入《ひい》りの月に似ていたからの事だったのです。あの色の白い、細面《ほそおもて》の、長い髪をまん中から割った三浦は、こう云う月の出を眺めながら、急に長い息《いき》を吐《は》くと、さびしい微笑を帯びた声で、『君は昔、神風連《しんぷうれん》が命を賭《と》して争ったのも子供の夢だとけなした事がある。じゃ君の眼から見れば、僕の結婚生活なども――』私『そうだ。やはり子供の夢だったかも知れない。が、今日《こんにち》我々の目標にしている開化も、百年の後《のち》になって見たら、やはり同じ子供の夢だろうじゃないか。……』」
 丁度|本多子爵《ほんだししゃく》がここまで語り続けた時、我々はいつか側へ来た守衛《しゅえい》の口から、閉館の時刻がすでに迫っていると云う事を伝えられた。子爵と私《わたくし》とは徐《おもむろ》に立上って、もう一度周囲の浮世絵と銅版画とを見渡してか
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