りぬけて、かすかな舟脚《ふなあし》を夜の水に残しながら、彼是《かれこれ》駒形《こまかた》の並木近くへさしかかっていたのです。その中にまた三浦が、沈んだ声で云いますには、『が、僕はまだ妻の誠実を疑わなかった。だから僕の心もちが妻に通じない点で、――通じない所か、むしろ憎悪を買っている点で、それだけ余計に僕は煩悶《はんもん》した。君を新橋に出迎えて以来、とうとう今日《きょう》に至るまで、僕は始終この煩悶と闘わなければならなかったのだ。が、一週間ばかり前に、下女か何かの過失から、妻の手にはいる可き郵便が、僕の書斎へ来ているじゃないか。僕はすぐ妻の従弟の事を考えた。そうして――とうとうその手紙を開いて見た。すると、その手紙は思いもよらないほかの男から妻へ宛てた艶書《えんしょ》だったのだ。言い換えれば、あの男に対する妻の愛情も、やはり純粋なものじゃなかったのだ。勿論この第二の打撃は、第一のそれよりも遥《はるか》に恐しい力を以て、あらゆる僕の理想を粉砕した。が、それと同時にまた、僕の責任が急に軽くなったような、悲しむべき安慰《あんい》の感情を味った事もまた事実だった。』三浦がこう語り終った時、丁度
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