度向うの桟敷《さじき》の中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。その頃私は芝居へ行く時は、必ず眼鏡《オペラグラス》を持って行ったので、勝美《かつみ》夫人もその円《まる》い硝子《ガラス》の中に、燃え立つような掛毛氈《かけもうせん》を前にして、始めて姿を見せたのです。それが薔薇《ばら》かと思われる花を束髪《そくはつ》にさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋《ふたえあご》を休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例の艶《なまめか》しい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで私も眼鏡《オペラグラス》を下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうしたのか、また慌てて私の方へ会釈《えしゃく》を返すじゃありませんか。しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥に恭《うやうや》しいものなのです。私はやっと最初の目礼が私に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間《たかどま》を見まわして、その挨拶の相手を物色しました。するとすぐ隣の桝《ます》に派手《はで》な縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算《つもり》だったのでしょう。
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