いた。が、近づきになって間《ま》もない私も、子爵の交際嫌いな性質は、以前からよく承知していたから、咄嗟《とっさ》の間《あいだ》、側へ行って挨拶《あいさつ》したものかどうかを決しかねた。すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、徐《おもむろ》にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭《ひげ》に掩《おお》われた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」と柔《やさ》しい声で会釈《えしゃく》をした。私はかすかな心の寛《くつろ》ぎを感じて、無言のまま、叮嚀《ていねい》にその会釈を返しながら、そっと子爵の側へ歩を移した。
 本多子爵は壮年時代の美貌《びぼう》が、まだ暮方《くれがた》の光の如く肉の落ちた顔のどこかに、漂《ただよ》っている種類の人であった。が、同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映が、もの思わしげな陰影を落していた。私は先達《せんだっ》ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶《ものう》い光を放っている、大きな真珠《しんじゅ》のネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。……
「どうです、この銅版画は。築地《
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