れぎり私も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』と、笑って済ませてしまいました。それが追々《おいおい》笑って済ませなくなるまでには、――この幽鬱な仮面《かめん》に隠れている彼の煩悶《はんもん》に感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。が、話の順序として、その前に一通り、彼の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。
「私が始めて三浦の細君に会ったのは、京城から帰って間もなく、彼の大川端《おおかわばた》の屋敷へ招かれて、一夕の饗応《きょうおう》に預った時の事です。聞けば細君はかれこれ三浦と同年配だったそうですが、小柄ででもあったせいか、誰の眼にも二つ三つ若く見えたのに相違ありません。それが眉の濃い、血色|鮮《あざやか》な丸顔で、その晩は古代蝶鳥《こだいちょうとり》の模様か何かに繻珍《しゅちん》の帯をしめたのが、当時の言《ことば》を使って形容すれば、いかにも高等な感じを与えていました。が、三浦の愛《アムウル》の相手として、私が想像に描いていた新夫人に比べると、どこかその感じにそぐわない所があるのです。もっともこれはどこかと云うくらいな事で、私自身にもその理由がはっきりとわかっていた訳じゃありません。殊に私の予想が狂うのは、今度三浦に始めて会った時を始めとして、度々経験した事ですから、勿論その時もただふとそう思っただけで、別段それだから彼の結婚を祝する心が冷却したと云う訳でもなかったのです。それ所か、明《あかる》い空気|洋燈《ランプ》の光を囲んで、しばらく膳に向っている間《あいだ》に、彼の細君の溌剌《はつらつ》たる才気は、すっかり私を敬服させてしまいました。俗に打てば響くと云うのは、恐らくあんな応対《おうたい》の仕振りの事を指すのでしょう。『奥さん、あなたのような方は実際日本より、仏蘭西《フランス》にでも御生れになればよかったのです。』――とうとう私は真面目《まじめ》な顔をして、こんな事を云う気にさえなりました。すると三浦も盃《さかずき》を含みながら、『それ見るが好《い》い。己《おれ》がいつも云う通りじゃないか。』と、からかうように横槍《よこやり》を入れましたが、そのからかうような彼の言《ことば》が、刹那の間《あいだ》私の耳に面白くない響を伝えたのは、果して私の気のせいばかりだったでしょうか。いや、この時半ば怨ずる如く、斜《ななめ》に彼を見た勝美《かつみ》夫人の眼が、余りに露骨な艶《なまめ》かしさを裏切っているように思われたのは、果して私の邪推ばかりだったでしょうか。とにかく私はこの短い応答の間に、彼等二人の平生が稲妻のように閃くのを、感じない訳には行かなかったのです。今思えばあれは私にとって、三浦の生涯の悲劇に立ち合った最初の幕開《まくあ》きだったのですが、当時は勿論私にしても、ほんの不安の影ばかりが際《きわ》どく頭を掠《かす》めただけで、後はまた元の如く、三浦を相手に賑な盃《さかずき》のやりとりを始めました。ですからその夜は文字通り一夕の歓《かん》を尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端《おおかわばた》の川風に俥上の微醺《びくん》を吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂《いわゆる》『愛《アムウル》のある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。
「ところがそれから一月ばかり経って(元より私はその間も、度々彼等夫婦とは往来《ゆきき》し合っていたのです。)ある日私が友人のあるドクトルに誘われて、丁度|於伝仮名書《おでんのかなぶみ》をやっていた新富座《しんとみざ》を見物に行きますと、丁度向うの桟敷《さじき》の中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。その頃私は芝居へ行く時は、必ず眼鏡《オペラグラス》を持って行ったので、勝美《かつみ》夫人もその円《まる》い硝子《ガラス》の中に、燃え立つような掛毛氈《かけもうせん》を前にして、始めて姿を見せたのです。それが薔薇《ばら》かと思われる花を束髪《そくはつ》にさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋《ふたえあご》を休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例の艶《なまめか》しい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで私も眼鏡《オペラグラス》を下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうしたのか、また慌てて私の方へ会釈《えしゃく》を返すじゃありませんか。しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥に恭《うやうや》しいものなのです。私はやっと最初の目礼が私に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間《たかどま》を見まわして、その挨拶の相手を物色しました。するとすぐ隣の桝《ます》に派手《はで》な縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算《つもり》だったのでしょう。
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