※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》の高い巻煙草を啣《くわ》えながら、じろじろ私たちの方を窺《うかが》っていたのと、ぴったり視線が出会いました。私はその浅黒い顔に何か不快な特色を見てとったので、咄嗟《とっさ》に眼を反《そ》らせながらまた眼鏡《オペラグラス》をとり上げて、見るともなく向うの桟敷《さじき》を見ますと、三浦の細君のいる桝《ます》には、もう一人女が坐っているのです。楢山《ならやま》の女権論者《じょけんろんしゃ》――と云ったら、あるいは御聞き及びになった事がないものでもありますまい。当時相当な名声のあった楢山と云う代言人《だいげんにん》の細君で、盛に男女同権を主張した、とかく如何《いかが》わしい風評が絶えた事のない女です。私はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡《めがね》をかけながら、まるで後見《こうけん》と云う形で、三浦の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感に脅《おびや》かされずにはいられませんでした。しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず襟を気にしながら、私たちのいる方へ――と云うよりは恐らく隣の縞の背広の方へ、意味ありげな眼を使っているのです。私はこの芝居見物の一日が、舞台の上の菊五郎《きくごろう》や左団次《さだんじ》より、三浦の細君と縞の背広と楢山の細君とを注意するのに、より多く費されたと云ったにしても、決して過言じゃありません。それほど私は賑《にぎやか》な下座《げざ》の囃《はや》しと桜の釣枝《つりえだ》との世界にいながら、心は全然そう云うものと没交渉な、忌《いま》わしい色彩を帯びた想像に苦しめられていたのです。ですから中幕《なかまく》がすむと間もなく、あの二人の女連《おんなづ》れが向うの桟敷《さじき》にいなくなった時、私は実際肩が抜けたようなほっとした心もちを味わいました。勿論女の方はいなくなっても、縞の背広はやはり隣の桝で、しっきりなく巻煙草をふかしながら、時々私の方へ眼をやっていましたが、三《みっつ》の巴の二つがなくなった今になっては、前ほど私もその浅黒い顔が、気にならないようになっていたのです。
「と云うと私がひどく邪推《じゃすい》深いように聞えますが、これはその若い男の浅黒い顔だちが、妙に私の反感を買ったからで、どうも私とその男との間には、――あるいは私たちとその男との間には、始めからある敵意が纏綿《てんめん》しているような気がしたのです。ですからその後《ご》一月とたたない中に、あの大川《おおかわ》へ臨んだ三浦の書斎で、彼自身その男を私に紹介してくれた時には、まるで謎《なぞ》でもかけられたような、当惑に近い感情を味わずにはいられませんでした。何でも三浦の話によると、これは彼の細君の従弟《いとこ》だそうで、当時××紡績会社でも歳の割には重用されている、敏腕の社員だと云う事です。成程そう云えば一つ卓子《テエブル》の紅茶を囲んで、多曖《たわい》もない雑談を交換しながら、巻煙草をふかせている間でさえ、彼が相当な才物《さいぶつ》だと云う事はすぐに私にもわかりました。が、何も才物だからと云って、その人間に対する好悪《こうお》は、勿論変る訳もありません。いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼は必ず音を立てて紅茶を啜《すす》ったり、巻煙草の灰を無造作《むぞうさ》に卓子《テエブル》の上へ落したり、あるいはまた自分の洒落《しゃれ》を声高《こわだか》に笑ったり、何かしら不快な事をしでかして、再び私の反感を呼び起してしまうのです。ですから彼が三十分ばかり経って、会社の宴会とかへ出るために、暇《いとま》を告げて帰った時には、私は思わず立ち上って、部屋の中の俗悪な空気を新たにしたい一心から、川に向った仏蘭西窓《フランスまど》を一ぱいに大きく開きました。すると三浦は例の通り、薔薇《ばら》の花束を持った勝美《かつみ》夫人の額の下に坐りながら、『ひどく君はあの男が嫌いじゃないか。』と、たしなめるような声で云うのです。私『どうも虫が好かないのだから仕方がない。あれがまた君の細君の従弟だとは不思議だな。』三浦『不思議――だと云うと?』私『何。あんまり人間の種類が違いすぎるからさ。』三浦はしばらくの間《あいだ》黙って、もう夕暮の光が漂《ただよ》っている大川の水面をじっと眺めていましたが、やがて『どうだろう。その中に一つ釣《つり》にでも出かけて見ては。』と、何の取《とっ》つきもない事を云い出しました。が、私は何よりもあの細君の従弟から、話題の離れるのが嬉しかったので、『よかろう。
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