愛《アムウル》の相手が出来たのだなと思うと、さすがに微笑せずにはいられませんでした。通知の文面は極《ごく》簡単なもので、ただ、藤井勝美《ふじいかつみ》と云う御用商人の娘と縁談が整《ととの》ったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島《やなぎしま》の萩寺《はぎでら》へ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋《こっとうや》が藤井の父子《おやこ》と一しょに詣《まい》り合せたので、つれ立って境内《けいだい》を歩いている中に、いつか互に見染《みそ》めもし見染められもしたと云う次第なのです。何しろ萩寺と云えば、その頃はまだ仁王門《におうもん》も藁葺《わらぶき》屋根で、『ぬれて行く人もをかしや雨の萩《はぎ》』と云う芭蕉翁《ばしょうおう》の名高い句碑が萩の中に残っている、いかにも風雅な所でしたから、実際才子佳人の奇遇《きぐう》には誂《あつら》え向きの舞台だったのに違いありません。しかしあの外出する時は、必ず巴里《パリイ》仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた三浦にしては、余り見染め方が紋切型《もんきりがた》なので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した私などは、いよいよ擽《くすぐ》られるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。こう云えば勿論縁談の橋渡しには、その骨董屋のなったと云う事も、すぐに御推察が参るでしょう。それがまた幸《さいわ》いと、即座に話がまとまって、表向きの仲人《なこうど》を拵《こしら》えるが早いか、その秋の中に婚礼も滞《とどこお》りなくすんでしまったのです。ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑《おか》しいと同時に妬《ねた》ましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の三浦が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。
「その頃の彼の手紙は、今でも私《わたし》の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目《さいもく》を根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養《ばいよう》に失敗した事、上野《うえの》の養育院の寄附を依頼された事、入梅《にゅうばい》で書物が大半|黴《か》びてしまった事、抱《かか》えの車夫が破傷風《はしょうふう》になった事、都座《みやこざ》の西洋手品を見に行った事、蔵前《くらまえ》に火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも一番嬉しそうだったのは、彼が五姓田芳梅《ごぜたほうばい》画伯に依頼して、細君の肖像画《しょうぞうが》を描《か》いて貰ったと云う一条です。その肖像画は彼が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、私も後《のち》に見ましたが、何でも束髪《そくはつ》に結《ゆ》った勝美婦人《かつみふじん》が毛金《けきん》の繍《ぬいとり》のある黒の模様で、薔薇《ばら》の花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔《プロフィイル》に描いたものでした。が、それは見る事が出来ても、当時の快活な三浦自身は、とうとう永久に見る事が出来なかったのです。……」
 本多子爵《ほんだししゃく》はこう云って、かすかな吐息《といき》を洩しながら、しばらくの間口を噤《つぐ》んだ。じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国《かんこく》京城《けいじょう》から帰った時、万一三浦はもう物故《ぶっこ》していたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔に注《そそ》がずにはいられなかった。すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、徐《おもむろ》に頭を振りながら、
「しかし何もこう云ったからと云って、彼が私《わたし》の留守中《るすちゅう》に故人になったと云う次第じゃありません。ただ、かれこれ一年ばかり経って、私が再び内地へ帰って見ると、三浦はやはり落ち着き払った、むしろ以前よりは幽鬱《ゆううつ》らしい人間になっていたと云うだけです。これは私があの新橋《しんばし》停車場でわざわざ迎えに出た彼と久闊《きゅうかつ》の手を握り合った時、すでに私には気がついていた事でした。いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。実際その時私は彼の顔を見るが早いか、何よりも先に『どうした。体でも悪いのじゃないか。』と尋《たず》ねたほど、意外な感じに打たれました。が、彼は反《かえ》って私の怪しむのを不審がりながら、彼ばかりでなく彼の細君も至極健康だと答えるのです。そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『愛《アムウル》のある結婚』をしたからと云って、急に彼の性情が変化する筈もないと思いましたから、そ
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