う》の遺制《いせい》あるなり。」とか何とか、感心したと云うじゃないか。だから何も旧弊だからって、一概には莫迦《ばか》に出来ない。』その中に上げ汐《しお》の川面《かわも》が、急に闇を加えたのに驚いて、ふとあたりを見まわすと、いつの間にか我々を乗せた猪牙舟《ちょきぶね》は、一段と櫓《ろ》の音を早めながら、今ではもう両国橋を後にして、夜目にも黒い首尾《しゅび》の松《まつ》の前へ、さしかかろうとしているのです。そこで私は一刻も早く、勝美《かつみ》夫人の問題へ話題を進めようと思いましたから、早速三浦の言尻《ことばじり》をつかまえて、『そんなに君が旧弊好きなら、あの開化な細君はどうするのだ。』と、探《さぐ》りの錘《おもり》を投げこみました。すると三浦はしばらくの間、私の問が聞えないように、まだ月代《つきしろ》もしない御竹倉《おたけぐら》の空をじっと眺めていましたが、やがてその眼を私の顔に据えると、低いながらも力のある声で、『どうもしない。一週間ばかり前に離縁をした。』と、きっぱりと答えたじゃありませんか。私はこの意外な答に狼狽《ろうばい》して、思わず舷《ふなばた》をつかみながら、『じゃ君も知っていたのか。』と、際《きわ》どい声で尋《たず》ねました。三浦は依然として静な調子で、『君こそ万事を知っていたのか。』と念を押すように問い返すのです。私『万事かどうかは知らないが、君の細君と楢山《ならやま》夫人との関係だけは聞いていた。』三浦『じゃ、僕の妻と妻の従弟との関係は?』私『それも薄々推察していた。』三浦『それじゃ僕はもう何も云う必要はない筈だ。』私『しかし――しかし君はいつからそんな関係に気がついたのだ?』三浦『妻と妻の従弟とのか? それは結婚して三月ほど経ってから――丁度あの妻の肖像画を、五姓田芳梅《ごせたほうばい》画伯に依頼して描《か》いて貰う前の事だった。』この答が私にとって、さらにまた意外だったのは、大抵《たいてい》御想像がつくでしょう。私『どうして君はまた、今日《こんにち》までそんな事を黙認していたのだ?』三浦『黙認していたのじゃない。僕は肯定《こうてい》してやっていたのだ。』私は三度《みたび》意外な答に驚かされて、しばらくはただ茫然と彼の顔を見つめていると、三浦は少しも迫らない容子《ようす》で、『それは勿論妻と妻の従弟との現在の関係を肯定した訳じゃない。当時の僕が想像に
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