か。私はこれを聞いた時には、陽気なるべき献酬《けんしゅう》の間でさえ、もの思わしげな三浦の姿が執念《しゅうね》く眼の前へちらついて、義理にも賑やかな笑い声は立てられなくなってしまいました。が、幸いとドクトルは、早くも私のふさいでいるのに気がついたものと見えて、巧に相手を操《あやつ》りながら、いつか話題を楢山夫人とは全く縁のない方面へ持って行ってくれましたから、私はやっと息をついて、ともかく一座の興を殺《そ》がない程度に、応対を続ける事が出来たのです。しかしその晩は私にとって、どこまでも運悪く出来上っていたのでしょう。女権論者の噂に気を腐らした私が、やがて二人と一しょに席を立って、生稲《いくいね》の玄関から帰りの俥へ乗ろうとしていると、急に一台の相乗俥《あいのりぐるま》が幌《ほろ》を雨に光らせながら、勢いよくそこへ曳《ひ》きこみました。しかも私が俥《くるま》の上へ靴の片足を踏みかけたのと、向うの俥が桐油《とうゆ》を下して、中の一人が沓脱《くつぬ》ぎへ勢いよく飛んで下りたのとが、ほとんど同時だったのです。私はその姿を見るが早いか、素早く幌の下へ身を投じて、車夫が梶棒《かじぼう》を上げる刹那の間も、異様な興奮に動かされながら、『あいつだ。』と呟《つぶや》かずにはいられませんでした。あいつと云うのは別人でもない、三浦の細君の従弟と称する、あの色の浅黒い縞の背広だったのです。ですから私は雨の脚を俥の幌に弾《はじ》きながら、燈火の多い広小路《ひろこうじ》の往来を飛ぶように走って行く間も、あの相乗俥《あいのりぐるま》の中に乗っていた、もう一人の人物を想像して、何度となく恐しい不安の念に脅《おびや》かされました。あれは一体楢山夫人でしたろうか。あるいはまた束髪に薔薇《ばら》の花をさした勝美夫人だったでしょうか。私は独りこのどちらともつかない疑惑に悩まされながら、むしろその疑惑の晴れる事を恐れて、倉皇《そうこう》と俥に身を隠した私自身の臆病な心もちが、腹立たしく思われてなりませんでした。このもう一人の人物が果して三浦の細君だったか、それとも女権論者だったかは、今になってもなお私には解く事の出来ない謎なのです。」
本多子爵《ほんだししゃく》はどこからか、大きな絹の手巾《ハンケチ》を出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻して、静にまた話を続け始めた。
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