釣なら僕は外交より自信がある。』と、急に元気よく答えますと、三浦も始めて微笑しながら、『外交よりか、じゃ僕は――そうさな、先ず愛《アムウル》よりは自信があるかも知れない。』私『すると君の細君以上の獲物《えもの》がありそうだと云う事になるが。』三浦『そうしたらまた君に羨《うらや》んで貰うから好《い》いじゃないか。』私はこう云う三浦の言《ことば》の底に、何か針の如く私の耳を刺すものがあるのに気がつきました。が、夕暗の中に透《すか》して見ると、彼は相不変《あいかわらず》冷《ひややか》な表情を浮べたまま、仏蘭西窓の外の水の光を根気よく眺めているのです。私『ところで釣にはいつ出かけよう。』三浦『いつでも君の都合《つごう》の好い時にしてくれ給え。』私『じゃ僕の方から手紙を出す事にしよう。』そこで私は徐《おもむろ》に赤いモロッコ皮の椅子《いす》を離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮《はくぼ》の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子《ようす》でも偸《ぬす》み聴いていたらしく、静に佇《たたず》んでいたのです。しかもその人影は、私の姿が見えるや否や、咄嗟《とっさ》に間近く進み寄って、『あら、もう御帰りになるのでございますか。』と、艶《なまめか》しい声をかけるじゃありませんか。私は息苦しい一瞬の後、今日も薔薇を髪にさした勝美《かつみ》夫人を冷《ひややか》に眺めながら、やはり無言のまま会釈《えしゃく》をして、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》俥《くるま》の待たせてある玄関の方へ急ぎました。この時の私の心もちは、私自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。私はただ、私の俥《くるま》が両国橋《りょうごくばし》の上を通る時も、絶えず口の中で呟《つぶや》いていたのは、「ダリラ」と云う名だった事を記憶しているばかりなのです。
「それ以来私は明《あきらか》に三浦の幽鬱な容子《ようす》が蔵《かく》している秘密の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を感じ出しました。勿論その秘密の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]が、すぐ忌《い》むべき姦通《かんつう》の二字を私の心に烙《や》きつけたのは、御断《おことわ》りするまでもありますまい。
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