開化の殺人
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)下《しも》に

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(例)最近|予《よ》が

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(例)梳※[#「木+龍」、第4水準2−15−78]《そろう》して
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 下《しも》に掲げるのは、最近|予《よ》が本多子爵《ほんだししやく》(仮名)から借覧する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎《きたばたけぎいちらう》(仮名)の遺書である。北畠ドクトルは、よし実名を明《あきらか》にした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親炙《しんしや》して、明治初期の逸事瑣談《いつじさだん》を聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶《なほ》二三、予が仄聞《そくぶん》した事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。現に後者に関しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だつたさうである。
 北庭筑波《きたにはつくば》が撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英吉利《イギリス》風の頬髯を蓄へた、容貌|魁偉《くわいゐ》な紳士である。本多子爵によれば、体格も西洋人を凌《しの》ぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力抜群を以て知られてゐたと云ふ。さう云へば遺書の文字さへ、鄭板橋《ていはんけう》風の奔放な字で、その淋漓《りんり》たる墨痕《ぼくこん》の中にも、彼の風貌が看取《かんしゆ》されない事もない。
 勿論予はこの遺書を公《おほやけ》にするに当つて、幾多の改竄《かいざん》を施した。譬《たと》へば当時まだ授爵の制がなかつたにも関らず、後年の称に従つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。唯、その文章の調子に至つては、殆《ほとんど》原文の調子をそつくりその儘《まま》、ひき写したと云つても差支へない。
       ―――――――――――――――――
 本多子爵閣下、並に夫人、
 予は予が最期《さいご》に際し、既往三年来、常に予が胸底に蟠《わだかま》れる、呪ふ可き秘密を告白し、以て卿等《けいら》の前に予が醜悪なる心事を暴露せんとす。卿等にして若しこの遺書を読むの後、猶《なほ》卿等の故人たる予の記憶に対し、一片|憐憫《れんびん》の情を動す事ありとせんか、そは素《もと》より予にとりて、望外の大幸なり。されど又予を目して、万死の狂徒と做《な》し、当《まさ》に屍《しかばね》に鞭打つて後|已《や》む可しとするも、予に於ては毫《がう》も遺憾とする所なし。唯、予が告白せんとする事実の、余りに意想外なるの故を以て、妄《みだり》に予を誣《し》ふるに、神経病患者の名を藉《か》る事|勿《なか》れ。予は最近数ヶ月に亘《わた》りて、不眠症の為に苦しみつつありと雖《いへど》も、予が意識は明白にして、且《かつ》極めて鋭敏なり。若し卿等にして、予が二十年来の相識《さうしき》たるを想起せんか。(予は敢《あへ》て友人とは称せざる可し)請《こ》ふ、予が精神的健康を疑ふ事勿れ。然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝《ひれき》せんとする此遺書の如きも、結局無用の故紙《こし》たると何の選ぶ所か是《これ》あらん。
 閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、将来に於ても亦同一罪悪を犯さんとしたる卑《いやし》む可き危険人物なり。しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に対して、企画せられたるのみならず、又企画せられんとしたりと云ふに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。予は是《ここ》に於て、予が警告を再《ふたたび》するの、必要なる所以《ゆゑん》を感ぜざる能《あた》はず。予は全然|正気《しやうき》にして、予が告白は徹頭徹尾事実なり。卿等|幸《さいはひ》にそを信ぜよ。而《しか》して予が生涯の唯一の記念たる、この数枚の遺書をして、空しく狂人の囈語《げいご》たらしむる事勿れ。
 予はこれ以上予の健全を喋々《てふてふ》すべき余裕なし。予が生存すべき僅少なる時間は、直下《ぢきげ》に予を駆りて、予が殺人の動機と実行とを叙し、更に進んで予が殺人後の奇怪なる心境に言及せしめずんば、已まざらんとす。されど、嗚呼《ああ》されど、予は硯《けん》に呵《か》し紙《し》に臨んで、猶《なほ》惶々《くわうくわう》として自ら安からざるものあるを覚ゆ。惟《おも》ふに予が過去を点検し記載するは、予にとりて再《ふたたび》過去の生活を営むと、畢竟《ひつきやう》何の差違かあらん。予は殺人の計画を再《ふたたび》し、その実行を再し、更に最近一年間の恐る可き苦悶を再せざる可《べか》らず。是果して善く予の堪へ得可き所なりや否や。予は今にして、予が数年来失却したる我《わが》耶蘇基督《ヤソキリスト》に祈る。願くば予に力を与へ給へ。
 予は少時より予が従妹たる今の本多子爵夫人(三人称を以て、呼ぶ事を許せ)往年の甘露寺明子《かんろじあきこ》を愛したり。予の記憶に溯《さかのぼ》りて、予が明子と偕《とも》にしたる幸福なる時間を列記せんか。そは恐らく卿等が卒読《そつどく》の煩《はん》に堪へざる所ならん。されど予はその例証として、今日も猶予が胸底に歴々たる一場の光景を語らざるを得ず。予は当時十六歳の少年にして、明子は未《いまだ》十歳の少女なりき。五月某日予等は明子が家の芝生なる藤棚の下《もと》に嬉戯《きぎ》せしが、明子は予に対して、隻脚《せききやく》にて善く久しく立つを得るやと問ひぬ。而して予が否と答ふるや、彼女は左手を垂れて左の趾《あしゆび》を握り、右手を挙げて均衡を保ちつつ、隻脚にて立つ事、是を久《ひさし》うしたりき。頭上の紫藤《しとう》は春日の光りを揺りて垂れ、藤下《とうか》の明子は凝然《ぎようぜん》として彫塑《てうそ》の如く佇《たたず》めり。予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。私《ひそか》に自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、実にその藤棚の下に於て然りしなり。爾来《じらい》予の明子に対する愛は益《ますます》烈しきを加へ、念々《ねんねん》に彼女を想ひて、殆《ほとんど》学を廃するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。陰晴《いんせい》定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫々《ばうばう》数年の年月を閲《けみ》せしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる医学を英京|竜動《ロンドン》に学ばしめぬ。予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、厳粛なる予等が家庭は、斯《かか》る機会を与ふるに吝《やぶさか》なりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦|桑間濮上《さうかんぼくじやう》の譏《そしり》を惧《おそ》れたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤笈飄然《こきふへうぜん》として英京に去れり。
 英吉利《イギリス》留学の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故園《こゑん》の紫藤花下《しとうくわか》なる明子を懐《おも》ひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身を憫《あはれ》みしか、そは茲《ここ》に叙説するの要なかる可し。予は唯、竜動《ロンドン》に在るの日、予が所謂《いはゆる》薔薇色の未来の中に、来る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。然り而して予の英吉利より帰朝するや、予は明子の既に嫁して第×銀行頭取|満村恭平《みつむらきようへい》の妻となりしを知りぬ。予は即座に自殺を決心したれども、予が性来の怯懦《けふだ》と、留学中|帰依《きえ》したる基督教《キリストけう》の信仰とは、不幸にして予が手を麻痺《まひ》せしめしを如何《いかん》。卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、再《ふたたび》英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、徒《いたづら》に精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、寧《むしろ》チヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙《はるか》に慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄《はうき》せしめ、加之《しかのみならず》予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚《よ》らしめ了《をは》りぬ。
 是に於て予は予の失恋の慰藉《ゐしや》を神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次《ぜんじ》熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一《いつ》に同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予は屡《しばしば》、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜|行人《かうじん》稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるを哂《わら》はずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私《ひそか》に従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷《きよき》せしを語るも善し。
 予が愛の新《あらた》なる転向を得しは、所謂《いはゆる》「あきらめ」の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之を詳《つまびらか》にする勇気と余裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創痍《さうい》を医し得たるの一事は疑ふ可《べか》らず。是を以て帰朝以来、明子夫妻の消息を耳にするを蛇蝎《だかつ》の如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依頼し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安の益《ますます》大にして、念頭|些《いささか》の苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。
 予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校書《かうしよ》十数輩と共に柳橋|万八《まんぱち》の水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一夕《いつせき》の歓《くわん》を倶《とも》にしたり。歓《くわん》か、歓か、予はその苦と云ふの、遙に勝《まさ》れる所以《ゆゑん》を思はざる能はず。予は日記に書して曰《いはく》、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆|一肚皮《いつとひ》の憤怨|何《いづれ》の処に向つてか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。然り而して予が妹を、斯《かか》る禽獣の手に委《ゐ》せしめ給ひしは、何ぞや。予は最早、この残酷にして奸譎《かんけつ》なる神の悪戯に堪ふる能はず。誰か善くその妻と妹とを強人《がうじん》の為に凌辱《りようじよく》せられ、しかも猶天を仰いで神の御名《みな》を称《とな》ふ可きものあらむ。予は今後断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼《しきき》の手より救助す可し。」
 予はこの遺書を認《したた》むるに臨み、再《ふたたび》当時の呪《のろ》ふ可き光景の、眼前に彷彿《はうふつ》するを禁ずる能はず。かの蒼然《さうぜん》たる水靄《すゐあい》と、かの万点の紅燈と、而してかの隊々《たいたい》相|銜《ふく》んで、尽くる所を知らざる画舫《ぐわぼう》の列と――嗚呼《ああ》、予は終生その夜、その半空《はんくう》に仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大妓《たいぎ》を擁し、左に雛妓《すうぎ》を従へ、猥褻《わいせつ》聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲然《がうぜん》として涼棚《
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