、亦以て卿等の為に聊《いささか》自《みづか》ら潔《いさぎよく》せんと欲するが為のみ。卿等にして若し憎む可くんば、即ち憎み、憐む可くんば、即ち憐め。予は――自ら憎み、自ら憐める予は、悦んで卿等の憎悪と憐憫とを蒙る可し。さらば予は筆を擱《お》いて、予が馬車を命じ、直《ただち》に新富座に赴かん。而して半日の観劇を終りたるの後、予は「かの丸薬」の幾粒を口に啣《ふく》みて、再《ふたたび》予が馬車に投ぜん。節物《せつぶつ》は素《もと》より異れども、紛々たる細雨は、予をして幸に黄梅雨《くわうばいう》の天を彷彿せしむ。斯くして予はかの肥大|豕《ゐ》に似たる満村恭平の如く、車窓の外に往来する燈火の光を見、車蓋《しやがい》の上に蕭々《せうせう》たる夜雨の音を聞きつつ、新富座を去る事|甚《はなはだ》遠からずして、必《かならず》予が最期の息を呼吸す可し。卿等亦明日の新聞を飜すの時、恐らくは予が遺書を得るに先立つて、ドクトル北畠義一郎が脳出血病を以て、観劇の帰途、馬車内に頓死せしの一項を読まんか。終に臨んで予は切に卿等が幸福と健在とを祈る。卿等に常に忠実なる僕《しもべ》、北畠義一郎拝。
[#地から2字上げ](大正七年六月)



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年7月6日公開
2004年2月23日修正
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