リス》留学の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故園《こゑん》の紫藤花下《しとうくわか》なる明子を懐《おも》ひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身を憫《あはれ》みしか、そは茲《ここ》に叙説するの要なかる可し。予は唯、竜動《ロンドン》に在るの日、予が所謂《いはゆる》薔薇色の未来の中に、来る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。然り而して予の英吉利より帰朝するや、予は明子の既に嫁して第×銀行頭取|満村恭平《みつむらきようへい》の妻となりしを知りぬ。予は即座に自殺を決心したれども、予が性来の怯懦《けふだ》と、留学中|帰依《きえ》したる基督教《キリストけう》の信仰とは、不幸にして予が手を麻痺《まひ》せしめしを如何《いかん》。卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、再《ふたたび》英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、徒《いたづら》に精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、寧《むしろ》チヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙《はるか》に慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄《はうき》せしめ、加之《しかのみならず》予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚《よ》らしめ了《をは》りぬ。
是に於て予は予の失恋の慰藉《ゐしや》を神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次《ぜんじ》熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一《いつ》に同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予は屡《しばしば》、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜|行人《かうじん》稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるを哂《わら》はずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私《ひそか》に従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷《きよき》せしを語るも善し。
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