どうもKらしくなかった。のみならず誰か僕のことを心配してくれる人らしかった。僕は急にわくわくしながら、雨戸をあけに飛び起きて行った。実際庭は縁先《えんさき》からずっと広い池になっていた。けれどもそこにはKは勿論、誰も人かげは見えなかった。
僕はしばらく月の映《うつ》った池の上を眺めていた。池は海草《かいそう》の流れているのを見ると、潮入《しおい》りになっているらしかった。そのうちに僕はすぐ目の前にさざ波のきらきら立っているのを見つけた。さざ波は足もとへ寄って来るにつれ、だんだん一匹の鮒《ふな》になった。鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭《おひれ》を動かしていた。
「ああ、鮒が声をかけたんだ。」
僕はこう思って安心した。――
僕の目を覚ました時にはもう軒先《のきさき》の葭簾《よしず》の日除《ひよ》けは薄日の光を透《す》かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸《いど》ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後《あと》でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つまりあの夢の中の鮒は識域下《しきいきか》の我《われ》と言うやつなんだ。」――そんな気も多少はしたのだった。
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